何やら「自由」について難しい説明がある。
“一般的には責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと。自由は一定の前提条件の上で成立しているから、無条件的な絶対の自由は人間にはない。自由は、障害となる条件の除去・緩和によって拡大するから、目的のために自然的・社会的条件を変革することは自由の増大である。この意味での自由は、自然・社会の法則の認識を通じて実現される”
読めば読むほどサッパリ分からないが、子供たちはどうやら書道によって自由を訴え始めたようだ。
オレが子供の頃思った自由は、好きな時に好きなだけテレビが見られる権利と、「早く入れ」と、親に催促されず好きな時に風呂に入っていい権利と、したい時にしたいだけオナニーができる権利の3つ。それは19歳で上京した時、全て勝ち取った。
しかし、自由というものは喜びの反面、退屈なものでもある。何だって自分一人でできることには飽きがくる。そんな時、またも人は他人による束縛が欲しくなって約束を交わしたり、わざと面倒なことに巻き込まれたくなるものだ。
“チッ! 自由が欲しいぜ”
そんなこと言っている内が一番、自由を大切に思っている時だ。
大人になって気づいた最大の自由とは死ぬことであった。死んだら何もかもおしまい。何もないことが本当の自由としたら、人はいつか望まなくても自由を得ることが出来るのである。だからそれまでは努めて不自由に、不自然に生きることが大切だ。人生とは“ジラシープレイ”のようなもの。自らを焦らし、焦らし、なかなか掴めぬ自由にもがき苦しむマゾになれ。

