溜さんの預金残高について、私は楽観的にすぎました。彼の態度が少しも変わらず、相変わらずのんきなものだったので油断しておりました。家賃とこの赤坂界隈の物価の高さから推して、かなり減っているだろうとは思っていたのですが……。
「50万円なの? たったそれだけ?」
多めに下ろしたから財布に1万円札が何枚かあると溜さんは言い、さらに、ウィークリー・マンションを出るときにデポジットの一部がバックされるはずだ、と付け加えました。
「そういうのも全部足すと、俺の財産は70万円くらいってことになるかな? なに、心配するな。それぐらいあれば、ここの契約が切れるまでは、なんとかもつ」
ウィークリー・マンションの部屋の契約は来月の20日が期限だということでした。あと3週間あまりしかありません。そりゃあ、もつでしょうとも。だけど、その先は?
「それから?」
「それからって?」
「契約を更新するんでしょ、もちろん」
「しないよ」
「しないの!? ここを出て、どこへゆくの?」
「まだ決めてない。しかし、出るしかないよ。家賃が高すぎるから」
「だけど、どうする予定なの?」
溜さんの実家の事情を考えると、私のように出戻るわけにはいかなそうです。
寝袋持参で制作会社に棲みつくのも、どうかと思う。20代の駆け出しADだったら、それもあり。けれど溜さんは年を取りすぎています。
では、やはり部屋を借りる? けれども溜さんの仕事のパターンを考慮すると、制作会社に近い所でなければ寝に帰るのも難しく、近い所というと港区か渋谷区内で、お家賃はそれなり。新規に入居するとなれば、下手をすると一気に100万円近い出費を覚悟しなければならないでしょう。
「それは……これから考える。川奈は、どうする?」
――どうしましょう?
私の貯金は、2000年1月末のこの時点で、450万円ありました。内、200万円は銀行の定期預金で、新居を定めて実家から移る際には、これを解約して引っ越し費用にあてるつもりでおりました。
ウィークリー・マンションを出てから後までも溜さんとの同棲を続けるかどうかについては、まだ迷っていました。ただし、母にも忠告されたことですが、私のアパートに彼が居ついてしまうという事態は避けたいと思っていました。
こんなふうな場面をたびたび空想しておりました――大年増のAV嬢の貧しげなアパートで、日がな一日、中古の編集機にしがみついている中年男。別れた妻に収入の大半を吸い上げられてコーヒー代にも事欠く男が、ふいに振り向き、空腹を訴える。「何か買ってくるわ」と応じる女の目の下に小皺が目立つ。男が財布を出そうとするのを押しとどめて彼女は言う。「私が払うから」。去ってゆく女のやつれたふくらはぎ、片方のストッキングが伝線している。それを見送りながら薄い財布をしまう男。みじめったらしく歪んだ彼の顔――。
私には、恋人をひざまずかせる趣味はありません。どちらかというと私の男には、私よりも高い所に居て欲しい。
偉い人が好きなのです。先輩とか師匠とか。神様とか。
前の夫が私よりも二回り年上だったのは、たぶんこうした志向に起因していて、考えてみれば溜さんも年上で、おまけに監督です。監督は偉い。いえ、AV嬢にとって、監督は偉くなくてはいけないのです。
私に言わせれば、偉くないAV監督なんて、ヒモです。
女を飯の種にしているわけだから、もしも尊敬できなければ、その男は明確にヒモ。
ヒモをぶらさげるのは御免だ、と私は溜さんの顔をあらためて見つめながら思いました。
――しかも、生え際が後退してるヒモなんて! 胸毛のあるヒモなんて!
人類の雄らしい特徴が顕著な溜さんは、胸を張っていてこそ美しい。彼には、是非とも、エラい男のままでいてもらわなければ困ります。
決心するまで、1分間ほどかかりました。
今後どうするつもりか私に尋ねてから60秒。そわそわしはじめた溜さんに、私は申しました。
「できれば一緒に住みたいな……」
彼のプライドを傷つけないように、細心の注意を払う必要がありました。
同棲しましょう、これから必要になってくるお金は私がすべて貸しましょう、と、まっすぐ言うのは簡単ですが、それでは「あんた金がないから!」と罵るのと同じこと。
愛されたくなければ、本当のことをズバズバ言ってしまっても構わないのですが。
「実家から独立するつもりで私が貯金してたの、知ってるよね? だけど、このウィークリー・マンションで溜さんと一緒に暮らしたら、もう、独り暮らしなんて切なくて……」
水を向けると、みなまで聞かずに溜さんは、いきなり私をぎゅうっと抱き締めました。
そのとき私たちは都合よくベッドの上に居りましたので、彼は脚まで使って私の全身を雑巾みたいに絞り上げ、そして耳もとで息を弾ませて、
「俺もだよ。ここに来てから、毎日が楽しくて嬉しくて、こういうのがずっと続けばいいなと思ってたんだ! ああ、よかった。同じ気持ちだったんだね! 愛してるよ!」。
――またしても愛の告白です。たぶん1000回目くらいの。
最愛の人への返答にふさわしい言葉がいくつも頭に浮かびました。「ほざくな」「よくもぬけぬけと」「脳天気」などなど。
抱き合うとき以外は、背中を見せてばかりいたくせに。
暮らしとも呼べないような日々の中で。こんな、昼でも薄暗いような部屋で。
ずっと続くなんてとんでもない! ここは好い場所ではありません。私も他人様のことをとやかく言える身分ではないけれど、怪しげな人たちばかりが出入りしていて、いつも壁が結露で湿ってカビっぽくて。この場所に来てから私は飲みはじめ、絶えず嘘をついて不品行を隠すようになり、女としても人としても下降線の一途をたどっております。……場所に責任転嫁してはいけないことかもしれませんが。
しかし、ここを脱出すれば世界は明るくひらけてくるという予感がありました。
それは、箱の中に閉じ込められた猫の予感に過ぎなかったかもしれません。そういう災難に遭うと猫は、外の世界はパラダイスだという確信を徐々に深めてゆくものです。そして蓋を開いてやると、狂喜して踊り出る。
私は、彼が言ったような、長く続くことを願いたくなる毎日や、楽しく嬉しい暮らしぶりというのは、だからすぐそこの未来に在るに違いない、と、このとき直感いたしました。
溜さんは私に借金することが、これで決まりました。いくら貸せとも、それを返すとも彼は言わず、そしてまた私も言質をとることは一切なかったにもかかわらず、確かに契約は成立しました。彼に何かを約束してもらうまでもありません。彼の名誉を、私は必ず守るでしょう――彼が返せないときは、貸さなかったことにすればいいのです。
彼を、女に借りた金を踏み倒すような最低のヒモにするわけにはいきませんから。
繰り返しますが、私は偉い人が好きなのです。神様とか、監督とか。
彼が私の神ならば、私は祈ろう。それしかありません。しかし、人が人に対して、突き詰めれば他に何ができるでしょう? 最後は祈るしかない。そう私は思うのです。
(つづく)



