プロフィール
畑中純
 マンガ家・版画家。1950年3月20日、福岡県小倉市生まれ。1977年『月夜』でプロデビュー。1981年『まんだら屋の良太』(2006年フランスで翻訳版を刊行)、日本漫画家協会優秀賞を受賞。
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2006年9月 8日 (金)
最終回・いまだに続く海水浴

Memory_of_summer  セミが鳴くと、海、山、川、温泉に呼ばれている気がして落ち着かない。五十六になるオッサンである私が、最良の時は、と問われて即答するのが海水浴である。
 子育ての時期に体験して、なかなかいいものだと思い、病みつきになりいまだに続けている。
 海につかって力をもらって病気を治しているんだと、自分や周囲に言い訳しつつ、今年は三浦半島に的をしぼって、まず浦賀観音崎に行ってきた。

 昨年までは、桑田佳祐を歌いながら茅ヶ崎だったけど、相模湾は浜が単調で荒いし汚いし、ということで、こぢんまりと砂浜と磯がセットになった場所を探したというわけ。
 観音崎は大好きな画家・谷内六郎に縁がある。事前情報として、また、現地でリサーチして、立派な浜、人気の浜があることは知っていたから、目指せ観音崎だったのである。

 岬の白い燈台、青い空、入道雲……あっ、この景色だ。谷内六郎がたびたび絵にした風景であり、代表的夏景色として知ってはいたが、実は初めて眺める景色であった。
 それを目に焼き付けただけでも、5時間海に入って頭と顔をヤケドしたことなど帳消しにできる。むしろ笑い話の材料ができて有り難いくらいのものだ。ちょっと強がり。難儀したのよ、実際は。
 テッペンが薄くなっているところに、前日バリカンで3mmに髪を刈っていたから、みるもおぞましい火ぶくれ、リンパ液。ここにかけないことも言われたが、まるでホラー映画である。
 油薬塗ったくって、タオルで巻いて、『死霊のしたたり』『悪魔のはらわた』あたりを鑑賞しながら、「オレだって負けてないぞ」と対抗心を燃やす夜もあった。

  1960年代の、あの夏最大のイベント、町内海水浴と、今もほとんど同じことをやって感動している自分が嫌いではない。波打ち際で稚魚をすくって、磯で小魚、貝、イソギンチャクと遊んで、多くの時間ただ浮かんで波間を漂っているだけ。帰り道の、あのトロンとしたけだるさまで含めて大好きだ。
 また、黄金の海に漂いでることにします。
 では、また。

2006年7月10日 (月)
やっぱりバナちゃん。持ってけドロボー

 「サア買うた サア買うた 五百でないなら四九か
  こいつは四八った四九じった
  四十八手は聞くよりもするがよいよいサノヨイヨイ
  モジモジするのはお嬢さん どうりで荷揚げ(にあげ)が門司港(もじみなと)
  弱った魚は目でわかる 四十七士のお歴々師走(しわす)半の十四日 
  吉良の屋敷に侵入し 見事本懐とげました
  四六のガマならハス向かい 四の五のゴネるおじいちゃん
  これで買わなきゃ四四か 四角四面は角が立つ
  よせばいいのにあの娘に惚れた 色が白いは豆腐屋の娘
  四角張ってて水くさい そちらの父さんまだ値切る
  値切って切られて与(四)三郎 四二番さけて四一(シイ)よけて
  四十はしごろの横丁の御内儀(おかみ) 青いバナちゃん大好物
  これで最後が三九か サンキュウサンキュウありがとう」

It_is_seductive このような調子で、タンカ売(ばい)は、だんだん数(値段)を落としながら唄っていく。性的表現が濃くなっているのは、幾度かマンガ作品に使っているうち、畑中版バナちゃんに傾いたからだ。
 本家争いとまではいかないが、門司港版、馬関(下関)調、佐賀のテキヤ・北園さん本家説とある。縁者によって変化していたようだ。
 今となっては書けない制限用語もふんだんに含まれていて、実はその辺が庶民のたくましさや笑いのパワーだったのだけど。

 「サアサ負けよか三五か 産後の奥さん気が早い
  やれイクさあイクああ落ちた 三四サヨナラ港の別れ
  三三ロッポー引き目なし それを引くのが男は度胸
  女は愛嬌振りまいて 皆さん人生勝ち続け
  私ゃバナちゃん負け続け……」

 それにしてもバナナは安くなった。持ってけドロボー、といいたくなるくらい安い。誕生日とか病気の時にしか食べられなかった時代だってあったのだ。
 滋養食品として、安全食品として年寄りにいいので、このごろ食卓にバナナの房が切れることがない。
 安いのはありがたいが、持って帰るのに少々重いのが難点だ。
 この文を書きながら、バナナを2本食べた。

2006年7月 6日 (木)
哀愁のバナちゃんタタキ売り

Imbanachan 基本的に香具師(やし)は、青果、生ものは扱わない。カメ、ザリガニ、金魚、ヒヨコ、ウサギ、ハムスターなどのペットはありだ。
 食用として例外的にあるのがウナギとバナナではなかろうか。
 ウナギ釣りは一回が高すぎるし、釣れてもたぶん持て余す。バナナはタタキ売りが一般的だが、関門には一種独特なタンカ売(バイ)がある。まあ、すべてのタンカ売(バイ)は関東に限る。
 浅草あたりの歯切れのいい見事な売を眺めたら、地方言葉の売はいずこもゆるく、見劣りがする。全編津軽弁とかベッタベタの河内弁とか徹底的に薩摩弁とかの口上なら聞いてみたい気もするが。

 それは台湾バナナの荷揚げ(にあげ)が盛んだった門司港で起こっている。
 悪くなる寸前のバナナの即売と宣伝を兼ねていた。タタキ売り自体は、貿易が始まった時からあるのだろう。門司港の特徴は、元がノゾキカラクリの客寄せ口上(こうじょう)だから、大本が浪曲で、やや暗い哀愁を帯びた語りの世界だ。

 「おいしいバナちゃん食べたなら 玉子みっつの栄養分 牛乳2本の栄養分
 バナちゃん因縁聞かそうか 生まれは台湾台中の阿里山麓(ありさんろく)の片田舎
 かわいい娘に見初められ ポッと色気のさすうちに
 一房二房もぎとられ 国定忠治じゃないけれど
 唐丸籠(とうまるかご)につめられて ガタゴト汽車に乗せられて
 着いたところが基隆港(キールンこう)
 基隆港から船出して 金波銀波(きんぱぎんぱ)の波超えて
 ようやく着いたが門司港(もじみなと) 門司の港で検査され 
 一等二等とある中で 私のバナちゃん一等よ
 仲士の声も勇ましく エンヤラドットの掛け声で
 問屋の室(むろ)に入られて 冬はタドンでうむされて
 黄色いお色気ついたころ バナナ市場に持ち出され
 一房なんぼの叩き売り!」

 潮の満ち引きを思わせる単調なメロディに乗せて、数字の語呂合わせ(ごろあわせ)を中心に唄っていく。本物を記憶しているのは、わずか一度のみ。なくなってしまってから惜しんだ保存会の実演記録によって知った世界だ。

2006年6月29日 (木)
露天商

Hatanaka25s 縁日の小屋掛け見世物興行と共に、主役を競うのは、香具師(やし)の売(バイ)である。八卦見(はっけみ)、七味唐辛子、瀬戸物、ガマの油などが代表的だ。
 このごろの呼び込み口上や、タンカ売はどうなっているのかと気になって、大国魂(おおくにたま)神社の大晦日や、くらやみ祭、深大寺のだるま市、布田天神、高幡不動をのぞいてみたが、いずこも感心できる口上はゼロだった。七味さえ無言で売っていた。
 ひとつ記憶したのは、だるま市でイヨカンを売っていた人が、つり銭を、初めて聞く数え方をしていたので、それが聞きたくて1万円で600円の蜜柑を買った。
 イチ(1)ニ(2)のサンマ(3)のシッポ(4)、ゴリラ(5)のムスコ(6)、ナナイロ(7)パンティ(8)、クロい……かクサイ……か9は聞きもらしてしまった。それをコワモテのオッサンがニコリともせず千円札を数えながら言うのである。その男のオリジナルなのか、地域的なものなのか、時代的な流行かは分からない。イマイチ芸に達していないし、ここに書きつけるほどのものではなかったが、香具師口上保存会の舞台とかでなく、ライブで印象に残った唯一の言葉だったので書いた。
 もし9、10が何なのか、また、もっと面白い数え方を知っている、という人がいれば教えてください。

 子供の時からテキヤの売を見るのが好きだった。「ガキ、ジャマ!」とか「小僧、アッチ行け」とか言われていたのだ。
 成人してからは、露天商のマネごとをしたこともあれば、本職の先輩を手伝ったり、名門の組に誘われたりしたこともある。
 厭(いや)な思い出としては、大量の革製品を商っている香具師と2、3の言葉をかわしていて、買う、買わないでもめて、あげく建築現場で3名から袋だたきにあったことがある。
 思いっきりガセネタをつかまされたこともある。
 ある程度ならガマンもする。もともと優良商品を露天商に求めているわけではない。だからガセでも笑って許せるだけの雰囲気と売口上の芸がほしいのである。
 香具師は仲間だと思っているのだから。

2006年6月23日 (金)
見世物小屋

 見世物小屋の天幕絵の第一人者、志村静峯は、1961年に小倉市立病院で亡くなっている。この病院に私は、5歳の頃1週間入院している。志村静峯に子供の私が面識はないが、このオジサンが晩年勤めていた「大衆美術社」という看板屋が、お勉強ロードの中ほどに在って、作業中のところを眺めたことがある、あの人がそうだったかもしれないのだ。

 志村静峯に関する情報は少ない。カルロス山崎の編集した画集が1冊ある。カルロスという人は、日本の猟奇的殺人事件をロウ人形にして興行を打って回っていた人だ。見世物興行世界の人だから、表立ってマスコミは動かないので、世間の知るところは小さい。

Hatanaka24s 静峯は長崎県壱岐の人だ。子供時代に不発弾をいじっていて手指を(1、2本か)飛ばす事故にあっている。どういう経緯で画家となったのか、あるいは、本画を断念して因果系の見世物絵師となったのかは知らない。興行主が東京、大阪に居たのか、絵師も動く必要があったのか、どちらにも便利な名古屋を拠点にしていたが、晩年は北九州小倉で過ごしている。有力な興行主が居たのかもしれない。

 ヘビ女、ウシ男、半魚人エトセトラ。’60年代まで祭りの小屋掛けは一般的で、「親の因果が子に報い、生まれでたるはこの子です、ええ、花ちゃんやい」といった呼び込み口上は親の世代からの知識だったが、小屋に出合う度に、インチキを承知で、小学生20円、中学生30円とかの料金を払って入っていた。脚のみで弓をさばく、といった類の技はあったが、大方、目的はエロとグロだった。
 経済成長と共に市民意識が高まり、娯楽の多様性と、主には差別問題で見世物興行は消えていった。

 静峯の天幕絵に40年振りに再会した。山口昌男に誘われて、見世物学会での仮設興行で見た。立派な人魚の絵を挿(さ)し、上半身魚、下半身魚、どっちがいいですか? と皆さんに聞いてみた。返事はもらえず、しばしの沈黙が返ってきたのでした。